初恋論

作:昼八 伊璃瑛

 直哉は、それはそれは美しい人間です。この世の何よりも美しいと私は思いますし、他の何人もが、彼のことをそう思うでしょう。世界には美しい顔の格付けが数多存在していますが、世界中の人間の目に彼が晒されたならば、それらの首位はすべからく彼に捧げられてしまうに決まっています。仮にそうならなくとも、私をはじめとする彼の賛美者が気にするはずはありません。だって彼は、そうした賛美者にとって、美という概念そのものの基準になってしまうのですから。ええ。そうです。

 入学式の壇上から、ずらりと居並ぶ新入生を、そしてその保護者を睥睨した時です。その一瞬、彼と目が合ったような気がしました。彼は決して見えやすい位置にはいなかったはずなのに、自然と視線が彼に吸い寄せられ、私は一瞬、呼吸が止まりました。拍手を浴びて壇上を降りながら、帰ってきた呼吸をゆっくり味わいながら、それでも一度見てしまえば無かったことにはできないその余韻を、ああ、美しかったと、いつまでも味わっていました。

 後になって、彼の苗字が雪本で、名前が直哉と言うのだと知ったその時から、自然と彼を心で呼ぶときの呼び方は、直哉、になりました。つまりはそれが、恥ずかしながら、私が初恋をした合図だったのです。

 直哉は詰襟がよく似合います。本人は首元が詰まっているのがあまり好きではないのか、入学して早々に、他の男子と同じように第一釦を開けるようになりましたが、私個人としては、入学式だからと無闇に緊張して、白い喉元をしっかりと漆黒の固い襟に覆っていた直哉がやはり印象に残っていますので、そちらの方が清潔な感じがして好きでした。直哉からしてみれば、当然知ったことではないでしょうが。

 少々細すぎるくらいの骨格も、肩幅さえ合わせてしまえば、制服ではわかりづらく、そもそも直哉は身長が低くはありません。百七十三センチは、そこで止まってしまっても十分なくらいの身長ですし、成長期であることを考えれば、まだまだ伸びることも容易に予想がつきます。脚が長いのに、裾の長い上着で腰の位置が隠れてしまいがちなことは、少しもったいないかもしれませんが。

 直哉の髪は、染めているわけではないでしょうが、他の人間に比べれば明るい色をしています。こげ茶色と言うか、ともかく少々薄い色です。全体としてはミディアムと呼ばれる程度の長さで、横顔にかかる髪が中でもやや長いのは、多分、顔を見られたくないのでしょうが、なんというか、逆効果ではないかなと時折思います。

 例えば、彼の横顔が多少隠れていても、抜けるような白い肌と、完全無欠と言って差し支えない顎のラインと、すんなりと美しく通った鼻筋と、よい血色が淡くにじむピンク色のふっくらとした唇は見えます。そもそも彼の頭蓋骨はとても端正な形をしていて、後頭部が突き出ていたりだとか、一部へこんでいたりだとか、そういうことが全くありません。額が突き出ているわけでも、受け口でもありません。彼の美しさは、ちょっとやそっとのパーツからなるものではないのです。ですから、目だけを隠す直哉の髪型はむしろ、既に隠しようもない彼の美しさを伴って、相手の目を見たいと願う人間の本能ごと、視線を誘ってしまいます。

 ノートをとっている時や、教科書を読んでいるとき、彼の目は完全に隠れてしまいます。時折集中すると、教科書の文章などを声に出さずに口元だけで呟いて、シャープペンシルのノック部分で軽くその唇を押さえました。

 やめてほしい、と思ってしまいます。もう少し、どう見えるか考えてほしいです。授業中のしぐさは、直哉のでなくたって、さりげなく皆確認しています。例えばペンを回したり、あるいは指を鳴らしたり、そうした行動のすべて、皆見ています。私は決してそういう直哉のしぐさが嫌いではありませんが、万が一、ブツブツ言っていて気持ち悪いだの、ペンを咥えただの、意味の分からないいちゃもんをつけられてしまっては、困るのは直哉です。直哉は目立つのですから。今のところ、そういう話を聞かないのが本当に幸いです。そもそも私も、授業中に人の顔を見るなんて不躾なことをする人間では、なかったのですが。

 そうして、たまには直哉が当てられて、ふ、と顔を上げると―私も大概、美化しているはずなのですが―記憶はおろか、想像や期待をはるかに超えるほど、美しい目が露になるのです。こればっかりは、何度経験しても慣れません。いつも眺めていれば、大抵その美しさに飽いたり、予想がついたり、頭の中で忠実に思い描けたりするものだと思うのですが、直哉は、何度見てもいつ見ても必ず、その美しさだけで強烈な感動を刻んでいきます。

 私は毎朝、直哉と彼の友人が待ち合わせて登校しているのと出くわします。直哉もその友人も同じクラスですし、彼らは愛想が良いので、軽く挨拶を交わします。そこで、ああ、直哉はこんなに美しい人間だっただろうかと、思わない日はありません。

 直哉と友人は会話をしながらゆっくりと登校しているので、自然と追い抜かして、彼らより先に教室に着きます。一番乗りのことが多いです。私の登校が早いのは、単に家族の起きる時間が早いからですが、彼らが早いのは恐らく、直哉に構おうとする他の連中を避けるためなのでしょう。まるで芸能人のようです。

 三分もすれば直哉と友人が楽しそうに教室に入ってきます。そこで視線を向けると、またぎくりとさせられて、慌てて反らしてしまいます。直哉は、友人に向ける笑顔と、他の人間に向ける笑顔が違うのです。

 その友人は、入学してから初めての授業で、ちょっと気さくすぎる教師が直哉のことを「イケメンだ」と繰り返しいじった時「教師がそういうこと言うのってどうなんですか」と言ったことがありました。教師の方は根が真面目だったらしく、きちんと受け止めその場で謝罪したのですが、空気と言うのは理不尽なもので、彼が変なことをしてその場が白けたかのような扱いになり、少し気の毒な立場になっていました。

 しかしむしろそれ以降、直哉は、席も近かった彼とよく話し、昼食も一緒に取るようになりました。

 私はそれで、ますます直哉が好きになりました。まっすぐな人間を、まっすぐだと理解できるのは、その人もまっすぐである証です。そしてまっすぐであるということは、軽視されてしまいがちだけれど、とても重要なことです。

 少し話がそれてしまいましたが、直哉がその友人と楽しそうにしているのが、私はとても好きです。人もまばらな教室で、ただじっと、直哉が幸せそうにくつろいでいるのを、噛みしめます。ただ、二日に一回以上は、そういうタイミングで一時間目の教師に手伝いを申し付けられてしまうのですが。

 手伝いと言っても教材を運んだりするのが関の山ですが、それでも大抵十分くらいはかかります。そうこうするうち教室に戻ると、だいぶ人が増えているものです。直哉の周りには散々人がたかります。けれど、直哉はニコニコと応対しながらも、友人を必ず会話の輪の中に入れて、二人の間でしかわからない話題などを、むしろわざと振舞ったりするのです。どこまで人が良くできているのか、友人が、それは皆に伝わらないだろう、とたしなめると、直哉は、ああうっかり、と言わんばかりに苦笑いで謝ります。そこまでされて怒る人間はいません。二人は仲が良いんだねと、何度も何度も、周囲に確認させます。直哉は強かだと、そういう時に思います。

そういう、友人のために強かになっている、なんとも言えないタイミングの直哉の、全然隙のない表情にも、例外なく胸はざわつきます。授業もまだなのに、一日が始まってこれで三度目です。自分でも時折、怖くなります。

 そうして授業が始まると、直哉はすぐに髪の毛で横顔を隠してしまい、そして呼ばれれば、あるいは、直哉自身が授業中に辺りを見回したりすれば、また、あの美しい目が、二重の、真っ白な瞼に覆われた、鋭くも濡れた目が現れて、何度でも見てはいけないものを見た気にさせられるからおかしなものです。

 恋をすると、こんなものなのでしょうか。少し度が過ぎている気がします。やはり自分がおかしいくらい恋愛体質なのではないかという気がしてきました。何を隠そう、母がそうなのです。母がと言うか、母の父親である祖父が、そしてその父親である曾祖父が、さらにそのご先祖様が大抵、どうも、そうらしいのです。

高校入学までは話半分に聞いていました。自分もそうなのだろうかと言ってみたこともありましたが、とんでもない、せっかくお前はそんなことがなさそうでよかったと思っているのに、と家族全員ものすごい慌てようでした。ちょっとやそっとの恋愛体質ではなく、毎度毎度思春期を迎えるたびに生きるか死ぬかの大騒ぎになる類のものであることが多いらしく、しかもその度合いが代を経るごとに強くなっていっているとのことでした。

 いくらなんでも恋愛体質がDNAで決まるわけはないとは思いたいですが、確かに、直哉に対するこの思いは、どう考えても尋常ではありません。そもそもが尋常ではない上に、まだ出会って大した時間も経ってはいないのに、この有り様なのですから。

 話す機会自体は実際のところ、他の人よりはあるはずですが、私自身が口数の多い方ではなく、またあまりに尋常でない想いに、この上話しかけたりして、距離を縮めようとも思えず、むざむざ棒に振っています。

 けれどそれでも、私は幸せです。直哉がいてくれるだけで、直哉の美しさに打ちひしがれているだけで、本当に、どうしようもないほど心が満たされていくのがわかります。これが恋愛というものであるなら、どうして切ないだとか悲しいだとか、生きるの死ぬのの話になるでしょう。期待しすぎではないのかと思います。期待しすぎというよりは、贅沢とでもいうのでしょうか。



 五月初め、直哉は、部活の同級生の女子と交際を始めました。

 その同級生の女子と言うのは、美人でも何でもなくて、周りの人間が意外がるのも仕方がありませんでした。私でも驚いたのです。不細工ではないけれど、いい子だけれど、それでも、なんということもない、少し純朴すぎるくらいの女の子―。

 驚きはしましたが、別段どうという事もありません。私はそもそも伝えることがないし、伝える気がないのですから、嫉妬というものも起こりようはずもありません。言ってしまえば、もう失恋しているのです。ありもしない可能性を惜しむでもなし、むしろ、相手がとてもいい子であることに、新たな喜びを覚えました。あの子ならきっと、大丈夫です。あの友人のことといい、直哉にはきっと、人を見る目があるのでしょう。

 そんな風に考えていた私は、大人のように悟ったふりをして、きっと、人の何倍も子供だったのだと思います。なんといっても、初恋なのです。初めて挑みかかる相手に、油断など、絶対にしてはならなかったのに。



 それは、魔物のような日差しが刻一刻ときつくなる頃でした。

 その日の五時間目は体育で、外での野球でした。よりによって一番日差しの照る時間帯に誰もが辟易しましたが、直哉はいつもどおり、隙なく微笑んでいました。

 しかし、どうしたことか、その腕や首が、徐々に赤くなっていくのです。初めは熱中症でも起こしたのかと思いましたが、風もありますし、飲み物も持ち込んでいいことになっていて、直哉も適宜水分はとっていました。それでは野球に熱中しすぎてという事でしょうか。 まさか。直哉は陸上部です。それも優秀な選手であるはずです。たかだかちょっとやそっとの盗塁ごときで、息すら上がらないはずです。

 にもかかわらず、どんどんどんどん、頬も耳もうなじも、みるみるうちに赤くなって、時折表情すら曇らせます。時間が経つほどに直哉は俯きました。髪の毛で表情を隠しているのです。歓声や応援、ヤジが飛べば、すぐに華やかな笑顔を浮かべて見せますが、苦しそうというより、何か猛烈な痛みを耐えるような表情に、ようやくピンときました。

 日焼けです。直哉の肌はまごうことなくブルーベースの、それも相当にメラニン色素の薄い肌です。そういう肌はメラニンで紫外線から身を守ることができず、そのまま熱と光の刺激を受け、正真正銘火傷を負います。しかし、それくらいでは保健室にいきづらいのか、残り半分ほどになった授業時間をそのままやり過ごそうとしているようでした。痛々しくて見ていられません。しかし放っておくことは到底できず、何も出来ぬままおろおろと黙っているしかできません。

 すると、あまりに熱心に彼を見ていた私が、つい視線を外すのを忘れているうちに、彼と目が合いました。私は常のごとくたじろぎましたが、今しかありません。無言で自分の腕や首をさすって、顎で彼を指しました。

 直哉は少し驚いたように、目を見開いて、それから伏し目がちにうなずきました。

 その痛みと疲労が剥き出しになった一瞬の無表情は、赤く色づいてしまった彼の肌といっしょに、じわりと、私の心臓の隅を、不穏に焦がしました。

 バッターが良いヒットを打ちました。一塁にいる直哉は、勢いよく駆け出します。二塁が近くなった辺りで、守備がボールを拾って戻ってきました。相当に位置が近いので、誰もが二塁で止まるだろうと思った矢先、直哉がさらに速度を上げました。守備も気の強い運動部だったので、何か思うところがあったのか、相当強引に止めにかかりました。しかし、直哉には結局、追いつき切りませんでした。追いつき切りませんでしたが、直哉の体は急にバランスを崩して倒れ込みました。

「ごめん、ちょっと無茶した」

 守備に直哉が詫びました。守備はうろたえています。倒れてから守備の体にぶつかったので、本来守備は悪くないのですが、幸い気づいていないようです。私は歩み寄って素早く守備と直哉の間にかがみました。直哉は無傷です。

 私は、血が出ているから保健室に連れて行くと皆に告げました。クラスメイトは騒ぎ守備は狼狽しましたが、直哉は翳りのない声で、心配かけてごめん、大丈夫だからと宥めました。そのまま私と校庭をつっきって校舎に向かいます。すっかりざわめきが遠くなった辺りで、苦笑いと一緒に、ありがとうと言われて、私はちょっと、返事ができませんでした。

 保健室には養護教諭の方がいませんでした。ちょうど職員室に書類か何か取りに行っていたようです。処置の仕方はわかっていましたが、勝手に物品を使うのは気が咎めます。職員室に呼びに行こうとする私の手首を直哉が掴みました。痛みのせいか力んだその手に、血管が少し苦しいくらい圧迫されます。

 直哉に触ったのは、これが初めてでした。

 振り返ると、直哉は気まずそうに手を放し、目をそらしましたが、愛想笑いは長く続かず、ぐしゃりと潰れて下唇を噛みしめました。痛くて仕方がないのでしょう。早く冷やしたい。あとで先生には謝るから、と言いながら、直哉は自分の持っていたタオルを水道で濡らしました。慣れた様子に尋ねると、やはり普段から日焼けに弱い体質のようでした。家に日焼け止めはあっても、学校に持ってきて神経質に使っているのを見られたくなかったと彼は話しました。概ね予想通りです。あんまり美しく人目を引くので、身だしなみや肌に気を遣っていると思われるのも嫌なのでしょう。

 私は、冷やした後に肌の保湿をするためのものを探し始めました。流石保健室です。ワセリンの類ならいくらでもありました。そういえば、体内から抜けた水分の補給もしなければならないことに気が付いて、持参していた飲み物が今手元にあるか確認しようと直哉の方を見て、瞬間、凍り付きました。

 直哉は濡らしたタオルを腕に乗せ、上からもう片方の手でそっと抑えていました。相当に痛いのか、普段穏やかに微笑んでいるだけの表情は、痛みの波に合わせてギリギリと緊張をしています。眉を寄せて目を細め、体全体を強張らせ、時折息を詰めるのです。そこには、分別や礼儀を弁えた常の精神はありません。ひたすら自分の物理的な痛みと格闘する、生き物としての感覚だけに支配された直哉がいました。

 私はその有様に、身震いします。

 私は直哉が好きです。その美の崇拝者としてだれにも勝る自負があります。人間として信頼してもいます。

 しかし、その時の感動、いえ、情動は、それらのどういった言葉でも説明はできません。確かに美しい。どれだけ苦しんでいようと彼は美しいままです。不謹慎ですが、赤く焼けただれてしまった痛々しい肌も、それはそれで、彼の透き通るような肌を却って際立たせるようで、たまらなく、ほれぼれするほど美しくはあったのですが、そうではない別の何かが、私の心臓を不快なざわつきとともに真っ黒に焦がしていきました。ただわからないのです。その熱の源が、私にはわからないのです。

 不意に、彼をただ待っているのが申し訳なく、押しつけがましく思えてきた私は、何かをやり過ごそうと、冷やした後の処置について一通り話し始めました。直哉が既にそれを知っていても、仕方がないつもりではありましたが、説明して正解でした。直哉は普段、日光で火傷した肌を冷やすまではやっていても、水を飲んだり、肌の保湿が必要であることは知らなかったのです。普段から肌が弱いのでワセリンなどと武骨なものでなくとも、こまめに保湿をしているらしく、そのため却って、日焼けの後に特に保湿をするという感覚がなかったようでした。

 一瞬直哉は、日焼けの痛みを忘れたように話に聞き入っていました。そして、少しだけ油断して、水で冷やしなおしたタオルを首筋につけた時でした。

 喉の奥から出てくるような苦悶の声が、一瞬迸って、直哉は歯を食いしばりました。押し付けすぎたのか、身構えが足りなかったのかはわかりませんが、とにかく鋭い痛みが走ったようで、彼はタオルすら取り落としました。

 私が焦ってタオルを拾い上げると、湿ったそれに、生々しく直哉の体温が残っていて、ありがとう、と掠れる声でどうにか告げた声に、顔を上げると、普段は見えない、俯いた時の直哉の表情が、正面が、目に飛び込んできたのです。

 激しい痛みをこらえて険しくこわばった眦一杯に、生理的な涙を溜め、噛みしめた下唇は赤々と燃えあがっていて、その苦しみのほどがこちらにまで焼き付いてきます。頬は痛々しく腫れていて、今にも零れる滴を受け止めでもしそうです。髪の毛から落ちる影の中に、白も赤もぼんやり浮かび上がって、それらすべてが、痛い、熱いと叫んでいました。

 受け取ったタオルを、直哉は慎重に、恐れすら感じながらゆっくりとうなじに貼り付けました。まだ痛むのか、ぴくりと身を震わせますが、先程よりは多少穏やかに、その鈍痛を受け入れて、やっと落ち着いた息を吐きます。

 そんな直哉を見つめる私の心に、ふと、ある事実がよぎりました。直哉のタオルを拾った時の、生ぬるく指にまとわりついた体温と、そしてそれを感じた私の指が確かに触れたその部分が、いつも白々しいほど透き通る彼のうなじに張り付いて、痛みを催させたという事実―。

 慌てて手元に置いていたワセリンの説明文を無理やり眺めました。何でもよかったのです。直哉から視線を外すことができれば。

 私の心臓はそれでも既に、真っ黒く焼け爛れていました。直哉の痛みを想像した瞬間、自分がそれにつながったような気がして、想像でしかない苦痛が甘ったるく血液の裏側を這いまわって、警告が耳の奥でガンガン鳴り響きます。

 ほどなくして保険医の先生が現れた時は、心の底から安堵しました。もともと物の分かる方なので、説明すれば、処置を引き受けてくれました。二人とも特に咎められはしません。保険医の先生は、ワセリンを塗るたび痛そうに顔をしかめる直哉に苦笑しましたが、私はそれどころではなく、五時間目が終わった瞬間に、治療の残る直哉を置いて授業に戻りました。



 その夜、初めて直哉の夢を見ました。

 直哉は校庭の真ん中を突っ切って登校してきます。詰襟の釦をしっかりと上まで止めているのは、入学式以来でしょうか。私はそれを信じられないほど遠くから見ていますが、どこから見ているんだか自分でもはっきりしません。直哉に多くの人が寄ってきます。直哉はニコニコと、いつも以上に隙なく笑ってみせます。ただ直哉は、どこかに急いでいるのか、例の友人すら表面上に扱い、できたばかりの恋人にも、優しくはしますが、その作り物めいた笑顔を崩しません。そして誰も、それを疑いもしないのです。

 恋人が彼から離れていくと、彼はいよいよその足を速めました。その表情が次第に苦しくなっていきます。すると、気が付くと、校庭にいたはずの彼が、目の前にまで来ていました。私は保健室にいたようです。

 直哉は私の手首を縋るように掴み、締め付けるような襟へと誘いました。苦しそうに息を乱しています。私の手を包む指が小刻みに震え、伏せられていた眼が、じっと、持ち上がると、とうとう涙が揺れ零れ、美しい顎をなぞるようにして私の、彼のそれと絡みに絡んだ指に落ちました。

「痛い」

 息も絶え絶えに直哉は言いました。「痛い―」繰り返される度、私の心臓が、また、ああ、熱い、熱い―。

 詰襟に指をかけてその釦をはじきます。手先は器用なつもりですがもつれました。勢いで振りほどいてしまった彼の指は、私の両手首に添えられています。中のシャツに手をかけると、不意に私の手が彼の素肌に当たり、彼は咄嗟に喉を反らせて短い絶叫を迸らせました。響きとして美しいものではありませんが、構いません。今の私にとって、直哉の美しさは、確かに尊くはあるけれども、けれどもはや、付加されるまでもないほど完全なものでした。今さら私の胸を焦がすこの炎はならば、一体。

 震える手で白いシャツをくつろげると、体全体に赤い火傷が広がっていました。それまで異変のなかった顔も、うなじから這い上がってくるその赤がどんどん広がって、彼はますます泣き腫らして痛みに震えます。

「痛い」

 先生を、友人を、恋人を、探しても誰もいません。どうして彼一人でここに、どうして他に誰もいないのか、問い詰めると、直哉は答えずに、憔悴しきった、痛みに疲れ果てた目で、何の余裕もなく言いました。

「助けて」

 痛みが、麻薬のように、再び血の中を巡りました。激しく打ち付ける心臓は、またひび割れて、新たな火を得て徐々に延焼していきます。ああ、どんなに痛いだろう、苦しいだろう、こんな風に、あんな風に、熱いのか。

 彼に与えられる彼の痛みが神経のすべてに行き渡って、酸素を根こそぎ奪っていきます。あ、ぁあ、あ、熱い―。

 彼の腕を強く引き、痛みに息を詰めるのを聞きながら、その真っ赤に焼け爛れた喉笛に舌を這わせました。

 直哉は声にならないほどの激痛に身を震わせ、それでも私の髪に指を通して自分の火傷に押し付けました。ふらつく直哉に食らいつくうちに落ちていた彼の詰襟を踏み躙ってしまったのをぼんやりと感じます。舐めた後の直哉の肌は白くなっていきましたが、今度は私にその熱が移って、胸元の肌が激しく痛み出しました。ただどんなに熱くても、ちっともやめる気にならないのです。

 熱に浮かされた勢いのまま、直哉を保健室のベッドに押し付けました。見上げる直哉の目からは夥しいほどの涙が零れ、疲れ切った頬に容赦なく痕をつけています。嗚咽は身も世もなく口から溢れ、ぜえぜえとした男性的な循環器の音に、内臓を締め上げられたような甲高さが頼りなくかすかに混じって、伝わる痛みはますます私を恍惚とさせました。

 直哉、名前を呼びかけます。ぐちゃぐちゃな視線が痛みも恐怖も隠すことなくこちらに向けられました。

 直哉、直哉、息の混じった私の声は大層聴きづらかったでしょうが、直哉は受け取って、それすら苦しいというように下唇を噛みしめます。血がにじんで新たな痛みを訴えるその唇に、ああいけないと、自分のを重ねて舌を這わせると、もどかしい微かな痛みに添えられたままの指が震え、私の唇を噛み返してきました。

 直哉はもっと、もっと、痛みによる治療を望んでいるようです。私も負けず劣らずそれを渇望していました。直哉をうつぶせにし、袖が通っただけの白いワイシャツの襟を後ろから掴んで引きずると、真っ赤なうなじが現れて、冷やされるのを待ち望むように放熱していました。

 指を添えると、青い血管が大きく、ゆっくりと脈打って、直哉の呼吸に合わせて、私の痛みを待っています。

 そっと舌を置いて、ゆっくりと冷やすように肩からうなじへ舐めあげました。這い上ってくる痛みに、あ、ぁ、とどっちつかずな声を低く漏らした直哉が、不意に、後ろ手に私に振り返ります。

 痛みに垂れた目はぐっしょりと濡れ、まだ血の伝う唇が小さく動きますが、ためらいがちで、空気に紛れて、聞こえません。

 「なに」

 心が逸るのを抑えて、穏やかに聞きました。

 直哉の口から言って、欲しがって。あげるから、なんでもあげるから、見ているから、詰襟を着ていようと、どんな笑顔を浮かべようと、絶対に私だけは、直哉の痛みを見逃さないから、だから隠さないで、言って。

 懇願が彼に届いたのかはわかりません。直哉はそれでも、崩れ落ちるように、ゆっくりと言いました。

 「助けて」

 私は、彼のうなじに噛みつきました。男子高校生として並の体力を持つ彼が反射的にジタバタと動くのを、体重をかけて必死に止めます。ぐっと力を籠めるたび、直哉が途切れ途切れに潰れた声で咽びました。早く楽にしてあげたくて、私はよりきつくその痛みに喰らいつきます。皮がちぎれて肉が見えたのにすかさず歯を立て直すと、彼は断末魔のような叫びをあげました。全身から絞り出されたようなそれが、底の見えないぞっとするほどの苦痛を私にまで響かせてくるのに怯まず、執拗に肉を抉ることに夢中になれば、血がちゃぷちゃぷと滲んで溢れて、直哉はもう力なく、がたがたと幸せそうに震えるばかりです。

 最後に思い切り噛みつくと、ぅ、と、小さいけれど、今までで一番危うい声が直哉から漏れました。ぷしゅりと大動脈が破裂して、直哉と私の顔を両方汚します。直哉が満足したように瞳を閉じるのと一緒に、開いた傷口が閉じて、真っ白い肌に戻っていくのを、陶酔して見つめて、体全体に残る直哉にもらった痛みの余韻にどっぷりと体を浸らせながら、視界がぐらついたところで漸く夢は弾けました。

 


 時計を見れば、眠ってからまだ一時間と経っていませんでした。下半身に這う違和感に愕然とします。息はひどく乱れ、嫌な汗のせいで額に髪の毛が張り付いていました。寝つきの良い家族は身じろぎ一つ聞こえません。自室の暗闇の中で起きた私は一人、震えながら体をかき抱きます。

 「直哉」

 実際に口に出したのはそれが初めてで、その自分のものとも思えぬ掠れた声に内臓全部がざわめき、考える間もなく喉まで込みあがったものを、部屋の隅の屑入れに出しました。

 喉を過ぎるたび熱いそれは、体を締め付け涙とともに出てくるそれは、暗がりにも醜く著しい酸性の臭気を放っていました。

 落ち着けばただ冷えていく空気、まだしつこくへばりつく腰の違和感、電流のように痛みを伴う痺れ。どうにもならない事実が、だるさと虚しさを連れてゆっくりとのしかかり、私はようやっと腰を上げて灯をつけ、片付けを始めました。

 あくまで私の結論ですが、つまるところ恋とは、いわゆるルールやテーゼと言ったものとは無縁であり、その人が恋だと思えば恋なのだと思います。だからこそ恐ろしいのです。おのずから蠢き始める想いは、恋の名のもと、物の良し悪しも正常も異常も境なく、なんでもかんでも飲み込んで膨れ上がって、その行く末は、宿主にすらわからないのですから。

 私は、目をそらしていました。直哉の美しさを讃え仰ぎ見る歓びに浸って、それしか知らないフリをしていただけです。

 苦痛に落ちる直哉を前に、その痛みを自分の中で疑似的に再現し、共感することで直哉の感覚そのものを貪りにかかった私は、もはや信徒ではあり得ませんでした。

 衝動に焦げ付いた私の心臓は、直哉を苦しめ痛めつけ、冒涜の限りを尽くし爛れた心臓は、言うまでもなく醜悪で、きっとこの吐瀉物など比べ物になりません。そして一度焦げて爛れたものが、ハリとつやと清廉さを取り戻すことなど絶対にないのです。

 直哉の美しさだけをへその緒で供給された目すら明かない胎児は、暗い羊水の中でならいくらでも美しくいられました。何度も何度も声を上げるその日を想像して、上手に直哉と呼んであげられるつもりでした。

 けれど憎たらしいあの太陽のもとに晒されて、産み落とされて、光の下で悶える直哉の美しさに眩んだ眼をこすって、漸く目の当たりにした自分は醜く、初めて直哉と読んだその声は涙が出るほどおぞましい。

 私の恋は汚い。酸素に触れればすぐに腐っていく、そんな不良品でした。

 


 次の日、皮肉なほど晴れ渡った青空と太陽の光の下、常のごとく直哉と友人に鉢合わせ挨拶をし、昨日はありがとう、と常とは違う言葉を付け足された私に襲い掛かったのは、何を隠そう羞恥の心でした。照れや気まずさに起因するものではありません。直哉が礼を言う、自分自身がいかに強欲で放埒であるか、知ってしまったが故の羞恥です。

 そんな状態でしたから、いつものように授業中の直哉を盗み見ることなどできるわけもありませんでした。ただでさえ行儀の悪いそれが、いよいよ涜神行為であるように思えて苦しくもなりましたし、また、私にとって、それは多分、パンドラの箱を開くようなものなのではないかとも恐ろしくなって、どうにか歪んだ習慣を洗い流そうと試みるうち、時間は過ぎていきました。

 ところが、その日の最後の授業中に

「雪本」

 教師が直哉を呼びました。

 一日の終わりの気の弛みからか、考える間も止まる間もなく、ほとんど反射のようにして、ちらりと、ほんの少し視線を向けるだけのつもりで、ともかく安易に、うかうかと目を向けます。

 髪が、さらりと直哉の頬をなでました。少しぼうっとしていたのか、

「あ」

 と口を薄く開いて声を漏らします。夢に見たのと打って変わって、その唇は一切の傷も痛みも見えず、どうしようもないほどに柔らかそうでした。二重の目を少し瞠ってやや忙しなく教科書をめくり、問題を確認して立ち上がります。まだ少し動揺しているのか、ほとんど無意識にでしょう、きょろきょろと軽く辺りを見回してその拍子に、私の視線とぶつかりました。

 何事もなく、ただ彼の回答を待つかのように黒板に視線を戻すと、一瞬後に直哉が黒板に向かいます。

 ほとんど永遠に思えたその一瞬で、私は苦く後悔を噛みしめました。少しばかり表情に出たかもしれないくらい、全身が強張っていました。

 見なければよかった。白い肌なんて。釦を開いた詰襟から僅かにのぞく、夢より白い肌なんて。



 その夜、また直哉の夢を見ました。今度は教室です。誰もいません。直哉の襟は、開いていました。

 今度は、「痛い」とも言わず、どころか、表情すらはっきりしません。ただ美しいことと、重複になるようで些か滑稽ですが、直哉であることだけはわかります。襟の向こうに見える白い肌がやけに生彩に眩きます。

 直哉がついっと、私の唇を中指と人差し指で挟んだり、なぞったりしました。くすくす笑って、その右手の人差し指と中指でピースサインを作って見せると、真っ白い粉がうっすらと付着しています。昼間の問題を解くのに使用したチョークでしょう。胸元の肌同様、その白ばかりやはり鮮明です。

 直哉は無言で、もう一度、私の唇にその二本の指を寄せました。体は近づけません。不思議と罰されている気分です。そのうち散々私の唇を白くした指が唇を弱くこじ開けて口内に入ってきました。石灰の味が直哉の味のように思われて、頭の奥がぼうっとしてきます。わずかに溜まる唾液の池を指が跳ねて微かに音をたて、彼の生々しい唇が、甘ったるく動きました。

 「助けて」



 そこで覚醒しました。時計を見ると、寝てから十分も過ぎてはいないようでした。これでは夢と言うよりは妄想です。

 体は熱を孕み動悸は少しばかり弾んでいましたが、頭は冷静です。覚えているうちにつらつらとまとめます。

 詰襟は、色合いや質感に留まらずその釦の文様や校章に至るまで精緻に描写されていました。黒板の配置や、学年目標の文字、自分の席の位置とパイプの歪み、錆と言った教室全体や物品の有様もことごとく正確です。夢自体が曖昧模糊としているわけではありません。直哉のその表情ばかりが焦点を結ばないのです。

 また、火傷の痕のない以上、直哉の「助けて」の意味は昨日の夢とは一線を画していると考えていいはずでした。では何をもって助けてほしいのでしょう。もっと踏み込んで有体に言うならば、直哉の口を借りて、私自身が要求しているものは、一体何でしょう。

 襟が開いていたことが、手掛かりでした。昼間に見て印象が鮮明だったというなら、そもそもずっと前から直哉は詰襟を開いているのに、昨晩の夢ではきっちりと閉ざされていたのは、どういうことなのでしょうか。

 そのまま目を閉じて、開いた襟を、白い喉元を、思い返します。

 わずかにのぞいた鎖骨が小さな影を落とし、伸びた青い血管がうっすらと透け、眩暈をもたらす、白い肌。触れればそこはさらりとつかみどころなく逃げてしまうのでしょうか。それとも、しっとりと吸い付き捕えてくるのでしょうか。もし彼に触れてもいいのなら、私はその一つ開いた釦を、閉ざすでしょうか?―いいえ。

 直哉の詰襟が一番上まで窮屈に締まっているのは、私が直哉をただ見ていた頃の象徴なのだと思います。その時の直哉は私にとって、実体を持たない、声と見た目しかない何かです。

 そんな彼自身の痛覚をまざまざと見て、あてられてしまったのが昨日。その夜の夢の中では、詰襟を締め切った直哉が助けを求めて、それを私が剥ぎ取り、そこで漸く、私の中で、直哉が肌と五感を持つものになったと仮定します。

 あの夢の主役が痛覚だったのは、苦痛に歪む直哉が火種となった夢だからです。表出の仕方が多少他人とは異なったかもしれませんが、自分が相手に触れたその感覚と相手が自分に触れられたその感覚とを求め焼き尽くしたあの炎は、それこそ情欲に違いありませんでした。

 そうしておぞましく黒焦げになった私の目に、今日の昼間、いつも通りの第一釦を開けた直哉が、そのすっかり火傷の癒えた白々しいほどの肌が飛び込んできて、つまりそれが新たな熱になったのだとすれば、先ほどの直哉が「痛み」を要求してこなかったことに説明がつきます。

 わかってしまえば下らないこと、私は痛覚でなくって、快感を媒体として直哉とつながりたいと思い始めたのです。

 しかしそれを夢で再現するには材料が不足しているのです。痛みに苦しむ直哉は昨日目の当たりにしましたし、自分も火傷を何度かしたことがありますから想像することができ、共有したつもりになれました。しかし、当然快感に浸る直哉や肉欲に駆られている直哉は見たことがありませんから、直哉がそういうときにどういう表情をするのかわからず、私自身、性どころか恋愛感情からさえ相当に遠かったもので、どれほど欲求が熱を持とうと、それが満たされた感覚の材料、つまり火種がありません。だから発火できなくて、直哉の顔がぼやけたのでしょう。

 せめて自分一人だけでも火がついてしまえば、その感覚を直哉に流し込んで、作り上げてしまえるでしょうが。

 ……耳を澄ませました。家族の静かな寝息が聞こえます。ゆっくりと起き上がって、自室の鍵をかけました。今までかけたことがありません。いきなり開けるというのもしない人達であるのは百も承知ですが、万が一開けようとしたら不信がられるのではないか、と、もう千分の一もないような不安ばかりが頭をよぎって、鍵をかけたくせに、布団の中に頭からつま先まで隠します。何をする前から震える唇をぐっと噛みしめ、初めて自分の体に、そういう意味で触れました。

 行き場のない熱を長いこと放っておかざるを得なかった体は、簡単にその気になりました。けれど何をどうしたらいいというのもわかりません。全焼を求める指があっちこっちを這い回りますが、感覚は思いの外むらがあり、触れる端から熱が逃げてしまいます。巧く熱を集めて追い込めればいいのでしょうが、自分でしている以上先も読めてしまい、何より、熱が積み重なって勢いがつきそうになると、今度は指が鈍ります。本能的に、知らない感覚への恐怖が体を冷まそうと躍起になっているようでした。

「直哉」

 試し、のつもりで呼びました。ごくごく小さい声は布団の中でくぐもります。みっともなさと申し訳なさと自己嫌悪が、冷たく心に落ちました。昨日の今日で何をやっているのか。自身の見苦しさに、あれほど呆れ果てたのに―。

 やはり無理なのです。私は無理です。最初からわかっていましたが、どうしたって絶対に無理だとわかっていましたが、自分がどれほど無残で汚らしいか突きつけ、どうせ叶わない想いを穢して踏みつけたのは、他でもない自分自身でした。

 仮に想いを伝えたとして、ただ伝えただけなら、彼は、普通に断ってくれるでしょう。それ以上の侮蔑など、表には出さないでいてくれるはずです。たとえその裏ではどれほど困惑し吐き気を催そうと、優しく笑ってくれるはずです。けれどだから何だというのでしょうか、それが私を一体どう救うのでしょうか、私だって彼の前では平気そうな顔をしておきながら、一人になれば、こうして、汚い妄想に彼を連れ出し世にも見苦しい姿で無様に悶えているのです。表裏を持った人間が、『裏』ではどれだけ奔放で残虐になれるか、誰よりも私が一番よく知っています。

 今さら何を泣くのでしょう、どうして惨めさを重ねるのでしょう。けれど止まりません。心から勝手に噴き出た雑菌だらけの膿が、どろどろと、ただでさえ大したことの無い顔を汚します。

「直哉」

 泣けば泣くだけ、縋りたくなりました。ここにいない直哉に。自分にとって都合のいい直哉に。

「直哉」

 そうして縋りつく声のなんという卑しさ。どうして声だけでも美しく生まれてこられなかったのでしょう。今まで生きてきて、この神経質なびりびり来る声がここまで厭わしかったことはありません。それでも、止まらないのです。布団の中だから、鍵をかけたから、絶対に伝えないから、今だけ。今だけ。

「直哉」

 みるみる声が掠れて小さくなりました。思わず目を閉じます。もっと暗闇が欲しかった。布団を突き抜けてきてしまう月の影が嫌でした。わずかにでも自分が照らされるのが嫌でした。何もかも忘れたくて、たまりませんでした。

 自分の体に、また触れました。ああ無理だ、やっぱり自分は無理なんだ、そんな興ざめな思考を、駄々をこねるように頭を振って落としたつもりになってみます。

「直哉」

 直哉が触れたと、思いました。絶対にありえないことです。わかっています。わかっていますが、直哉の白いチョークのついた指がさっきの続きと言わんばかりに再び口内に入ってくるのに合わせてもう片方の指を二本、咥えます。舌で触れれば予想している以上に強い感覚がありました。直哉、直哉、呼びかければ浮かび上がる直哉の顔に、私の指の感覚を流し込むように意識すると、ごくわずかに戸惑って、指が震えました。唇がうっすらと開いています。無意識でしょうか。

 今度は意識を反転させて直哉の口を嬲ります。彼の唇はもっと柔らかいことでしょう。ゆったりと歯列を指でなぞって、上顎の裏を中指の関節で撫でます。さっき直哉が私にしてくれて、心地よかったのを、仕返します。直哉の舌が指に絡むたび、体全身に響く刺激が、口の中を弄り回される直哉の感覚への共感になって、何度も何度も私の中を、ぐるぐるぐるぐる回ります。

 直哉、好きだよ、大好き、好き。答えるように舌がきゅっと指を締め付けてくるのに、出所の分からない涙と笑みで返しました。本当に好きだよ、直哉、ごめんなさい、好きになってごめんなさい、許してください、ごめんなさい、こんなことをしてごめんなさい、好きです、本当にごめんなさい。

 唇から指を引き抜くと、直哉が指を追いかけて、唇で唾液の糸を千切ってくれました。ぎゅうっと体が締め付けられる思いでいると、当然そこは私の理想が響く世界ですから、直哉が私を抱きしめてくれました。私も抱きしめ返します。想像するしかない彼の背中に手を伸ばし、存在しない体温を必死で思い描きます。でも一人だから、どうしたって一人だから、ああ、なんにもない。

 恐ろしく冷たい抱擁をやめにして、唾液で濡れた指をそっと、再び体に這わせました。

「直哉」

 大丈夫です。熱はもう怖くありません。今度は直哉がいてくれます。直哉が触ってくれるし、直哉に触れられました。

 快感が私と直哉をぐちゃぐちゃに駆け巡って、視点が頻繁に切り替わります。どちらともなく体重が支えられなくなって、直哉を私が抱き寄せたのを切っ掛けに二人で床に崩れ落ちました。直哉の重みは感じられなくとも、直哉の押し殺した声は耳に聞こえます。私が痛いほど歯を食いしばって、声をこらえているから、その感覚を想像上の直哉に押し付けているのです。

 知らない刺激は体を這いまわって、私は確実に限界まで追い込まれていました。崩れ落ちそうな疼きが自分でもわからないような奥深くから這い上がってきて、内側から私の仕組みをぐずぐずに蕩かそうとするのに恐怖を感じないではありませんが、直哉が私を見つめて嬉しそうに笑った瞬間、背筋に走った本能的な震えが痺れに変わって一気に首筋まで貫きました。串刺しにされた私は、成す術もなく耳から頬まで火傷を作り、一度反った背中を戻すこともできないままに、直哉のくれる崩壊を受け止め、直哉にもそれをありったけ与えるばかりです。

 直哉が震えるあまり私に触れられなくなるのがいじらしくて、つい直哉ばかりを熱で苛んでしまうと、直哉が激しく息をしながら私を見つめてきました。乾きに切なく細めた美しい目が正気を失して濡れ滴っている矛盾は、どんな愛撫よりも激しく刺さって、たまらず心が叫びます。

 いけない、と気付いてももう遅く、私の願望そのままに、直哉が倒れ込むようにして私の唇に自分の唇を重ねてきました。

 唇も舌も自分のものに指で触れた経験しかありませんから、きっとこの感触は贋作の中でもとりわけ不出来であるのでしょう。

 私はそれでもそれに酔います。自分で自分にキスをして、それでも目の前にあるのは直哉の顔だから、少しぼやけてはいるけど絶対に直哉の顔だから、だから必死で、感触だけの味のないキスを繰り返します。

 そのまま体に触れなおせば、箍が外れたように、心ごと快感を追うことに夢中になりました。獣です。私は人間ではありません。人としての尊厳をすべて失った獣のくせをして、恥知らずにも直哉を乞うて咽びます。

「直哉」

 それに応えようと、直哉は私により一層触れます。激しく追い上げられて、私も直哉に必死で手を伸ばしました。ああ、直哉、気持ちいい、あ、ぁ、好き、好き、好き、直哉、直哉。

 直哉がそっと耳に口を近づけて、かすれた声で、俺も、と言いました。嘘です。絶対にあり得ません。でもありがとう、嬉しい、好き、ごめんなさい、好きです、本当に好きです、助けてください、許してください、どうか。

 すると、息も絶え絶えの直哉が、泣き腫らした私の目を拭って、掠れに掠れた声で、私の、名前を。下の名前を呼んで。


 生まれて初めて、死んでもいいと、本気で思いました。笑っていただいて構いません。



「好きな人ができた?」

 狼狽しなかったのは我ながら偉いと思います。

 近頃すっかり毎晩に近く鍵をそっと閉めていることを関知しているわけではないらしい母が続けました。

「ごめんね、最近、大人っぽい表情をするから」

 大人っぽいとは何でしょう。たしかに、この痛みを知るのと知らないのとでは、雲泥の差がある気はしますが。

 「ない?ないならいいの」

 完全に恐る恐ると言ったその対応に、とりあえず否定しておくことにしました。親戚の中でも歴代屈指の恋愛体質と言われた母のこと、自分で実績がある以上、余計に私を心配するのでしょう。確かに私は今思春期で、何を隠そう、初恋に溺れていました。

 実際にあれ以降、直哉に呼ばれる夢の中で、あるいは私が呼び出す幻の中で、突発的にとはいえ何度も、死んでもいいと本気で思っているので、血の恐ろしさに苦笑するほかはありません。

 ただ、母は結局は恋を果たしていますし、母が生まれている以上歴代の方々も何らかの形で病を違った形に昇華させているのですから、一時身に入れた毒はどこかのタイミングできちんと栄養に転じてその心身を健やかにしているようでした。

 けれど私の場合、それは望むべくもありません。どれほどこの恋を消化し一つになりたくとも、それが叶わないことを知っていました。初めから私は、毒を栄養にしようとすることを諦めていました。吐き出すことも溶かすことも諦めて、ただ体中を何周も巡っているのを、発熱しながら感じます。ましてや私が口に入れたのは、この世で最も甘くて美しい凶悪な猛毒でした。何度でも患い直して、深く深く蝕まれるだけ蝕まれて、自己完結した病のその激しさは却って、誰にも知られないうちに静かに群を抜いていくようです。

 毎晩毎晩夢幻の中で、肌すら超えて直哉と自分を攪拌しているものですから、私の頭は徐々に霞がかります。視覚に、聴覚に、触覚に、嗅覚に、味覚に、ごくわずかずつ、直哉が混じるのです。

 例えば授業中、ノートをめくっても紙の白さに、うっすらとした罫線の青に、じわりと直哉の首筋が浮かび上がります。さらさらとしたその触感が指の表面をくすぐると、直哉の歯や舌に、熱い息に包まれた感覚がふっとよぎります。感覚が近いかどうか、似ているかどうかは関係がありません。似ていなければ似ていないで、ああ、直哉に似ていないなと思いますし、似ていれば似ているで、ああ、直哉みたいだと思います。そこにはびこる違いの一つ一つすら、直哉で説明しようとします。直哉に似ているような似ていないようなノートに、似ても似つかない水性のインクボールペンでメモを取ろうとすると、しかしそのグリップの吸い付く感触は少しばかり似ているような気がして変な力がこもり、そのまま白と青の何も書かれていない紙に押し当て、その先端が紙をわずかずつひっかくのを、インクがにじみ出てゆっくりとしみこんでいくのを、ただ享受します。隅の日付を書く欄の月の部分にひと筆で6と書き入れ、ペンを持ち上げると、ぴちゃり、とインクが名残惜し気にノートから引き揚げられる音がわずかに聞こえます。これはどことなく、あの指の唾液を啄んだ直哉の唇の立てた音に近い感じがしました。

 周囲から見れば私の様子に何も変わりはありませんが、私自身の認識や感覚の内訳はこんなものでした。これが日を追うごと鋭敏に綿密になっていくのです。恋をすると、相手のことしか考えられなくなるとよく言いますが、どうも私は感覚の一切合切を直哉に奪われつつありました。妙に要領がいいのか、恋愛体質に向いている性分をも持ち合わせているのか、直哉のことしか考えられないというよりは、すべてのことが直哉のことになってしまう都合のいい状態です。

 すなわち、教師の要領を得ない説明の、どこがどう繋がりが悪く、どの言葉選びが間違いで、誤解を招き、教師自身が単純な勘違いをしているのか、私の悟るそのすべてが、直哉が授業を受けてどうそれをかみ砕いているかにつながります。盗み見るその表情が、案外容赦なく、あるいは子供らしくムッと眉をしかめるのと、教師の言っていることを同期させて、直哉の納得しえない部分を割り出す作業はとても楽しいです。直哉はそれなりに優秀な方ですから、直哉が理解しづらいと思えば大抵、他の生徒にも混乱が生じているものです。クラスの大多数がいまいちわかっていなければ、教師もそれに気づきます。そういうタイミングで、敢えていつも以上に平然としていると、救われたと言わんばかりに私に問題を振ってくることがあります。解くとどう導き出したかを問われるので、そうした時には、直哉が引っ掛かったであろう所をわざとかすめて、あくまで私自身の思考の回路を説明しているような体で、間接的に教師の説明を修正します。他の人間の混乱の分は知ったことではありません。そんな義理もありませんので。

 そうして私は、直哉のためになります。自分と直哉をかき混ぜて境目を曖昧にしたのを逆手にとって、直哉に自分を流し込みます。それをしていて私の勉学に何の差障りがあるはずもありません。私が直哉で、すべてが直哉で、直哉も私になってしまったのなら、直哉に尽くすことは、すべてに尽くして、それを悦んでいられるということでした。

 無遠慮にべたべたと手垢をつける罪悪感と、触れても感じても足らない飢餓感にどれだけ苛まれようと、私はひとまず、その体質と病を抱えたまま生きることに成功していました。熱はただただ上がるばかりで、だるさも苦しさもありますが、ほとんど癖のようにして五感を研ぎ澄まして摂取するその毒は、回れば回るほど甘くて仕方がありません。

 昼間のうちに毒を喰らって、そのいくつかを直哉の栄養にして勝手に与え、夜には残った毒が心臓に達して夢か幻の中で直哉になって訪れるのを待ちます。

「助けて」

 いつも彼はそう言います。泣きながら、あるいは微笑みながら、訴えます。

「直哉」

 呼び掛けるたび何度でも更新されてゆく快楽にこれ以上ないほど溺れながら、最後には、ああ、やっぱり今死にたいと思って、偏執にまみれた一日を手放すのです。

 


 移行期間もいよいよ終わろうかと言う頃合いで、直哉は漸く夏服になりました。半袖のワイシャツにスラックスの直哉は、本来の腰の位置が露になっています。いつ見ても皺ひとつないワイシャツの袖は広く、そこから伸びる剥き出しの白い長い腕は錯視によって常以上に細く見えてしまっていました。運動部だけあって多少鍛えられてはいるはずですが、もともと骨自体が細い傾向にあるのが強調されてしまった格好で、何より本人が一番そこを気にしているらしく、時折神経質に二の腕をさするのが癖になってきているようです。

 暑苦しい詰襟を、それでもなかなか脱ごうとしなかったのは、やはり日差しを気にしてのことなのでしょう。窓際の列の直哉は最近では少しでも日が照るとカーテンを閉め、授業が始まると、白い襟の照り返しを受けたのか、或いは気温に煽られたのか、ほのかに火照ってしまった頬を不貞腐れたように俯いて隠します。髪がやや伸びてきていました。

 相変わらず周囲の人間に愛想よく接していますが、そうでない時の彼には苛立ちや神経質さが子供っぽく見え隠れするようになり、しかしそれが私にはより一層の彩と慕わしさを添えたように思われて、ますます直哉を見つめ貪るようになりました。こうまで来ると中毒、あるいは依存症と言ってもいいかもしれません。

 あれ以降体育は屋内に移行しており、しばらくは夕日もすぐに傾いていたので心配はなかったのですが、いずれそうも言っていられなくなるでしょう。梅雨に入る前に、また火傷をしそうでした。



 ところが、半袖になって一週間ほど経った頃から、直哉の様子は変わりました。

 窓から差し込む日光に過敏でなくなりました。梅雨にもまだ入らず日差しは強くなる一方なのに、カーテンも、他の生徒が眩しそうにするので閉めに行くのがほとんどです。右肩上がりの湿度と気温の中、少し汗ばんでも気が付くとすぐにそれはすっきりと引いていて、肌は以前よりむしろ一層清潔に荒れの一つもなく、白々としていました。身だしなみはおろか、態度さえも涼やかなもので、目許には凛とした円い落ち着きを湛えてさえいるのです。

 そんな直哉は冗談のように綺麗で、それでいて私は、全然つながることができません。

 直哉がどうしてそうなったのか、そもそもどうなっているのかわからないからです。私の知らない何かが、私の知らないうちに発生して、それが直哉をこういう風にさせていました。

 先生が留守にする時間帯の保健室で利用者記録を漁ってみましたが、二週間ほど前に私が書いた三時間目の記録以降、直哉は一度も保健室には来ていないようでした。あの体質にこの気候と来て日焼けの一つもしないのはいっそ不自然でしたが、日焼け止めの類を塗っているところも見たことがありません。

 やはり腑に落ちません。相変わらず接点自体はありますが、流石に日焼けの話を突然持ち出して不自然にならない文脈は思い浮かびません。そもそも隠していたかったことでしょうから、直哉の方から切り出すならまだしも、私から掘り返すのは筋違いであるという気もします。

 利用者記録を元に戻してなんとなく近場にあった椅子に腰かけると、いつの間にか溜めていた息がやたらに重く、しばらく立ち上がるのが億劫でした。早く梅雨になればいいのに。なぜかそんなことを思いもしました。



 現実とどんどん乖離していく夢幻の直哉をただ噛みしめることしかできないまま、数日が経過しました。

 その日は午前授業で、部活もなかった私はすぐに帰路につきました。湿度と日照りが殊更にひどい日でした。こんな日は、直哉はまた火傷して、苦しんでいてもおかしくないはずです。

 私は一体直哉の何を見落としているのでしょうか。

 あまりに手持無沙汰なので、本でも読むつもりで入る店を探しました。学校からは市街地が近く、喫茶店や洋食屋、甘味処など、放課後寄るのにちょうどよい場所が多くありました。とはいえそれほど規模が大きいわけではありませんし、店の質にも幅がありますから、人気の店は限られます。そうしたところは学校の人間と顔を合わせやすくて煩わしく、あえて避けていると、賑わいから少し逃れた通りに、聞いたこともない喫茶店がありました。

 やや歴史は長そうですが、小綺麗な雰囲気もあって、また純喫茶と看板にあるあたり、高校生が入りそうな雰囲気ではありません。中に入ってみると、やはり学生はいませんが、社会人の客が多く、満席でした。窓がなくて日光の入らない店内はひんやりとしていて、それだけで気分が少しくつろいでしまいます。

 店の人にしばらく待つよう言われたので、手近に置いてあったメニューに何となく目を通します。六月限定で、雨の日にはいくらか値下げするサービスがあるようでした。傘の貸し出しも行っているあたり、ここの店は雨になると少々優しくなるらしく、それがなんだか楽しげで、梅雨がまた待ち遠しくなりました。当然のようにそのまま直哉を想います。

 梅雨になったら雨雲の向こうに太陽は隠れて、直哉の肌はより白くなって、雨が降ればこの店は少しばかりおまけをしてくれて、つまりここで雨宿りをすればよく、仮に晴れの日であろうとも、窓のないひんやりとしたこの店に居れば、太陽とは無縁でいられます。この店でくつろぐ直哉はきっと、最近の比ではないくらい幸せそうに落ち着いているでしょう。それを盗み見れるものなら盗み見たいです。きっとその直哉の幸せは、私の心にきちんと伝わるだろうから。

 すると目の端に捉えた奥まった席に、直哉の姿がありました。恋人と一緒でした。直哉がここにいるのを想像していた私の肉眼に直哉がここにいるのが映ったので、やけに気恥ずかしくなるやら驚くやらしましたが、考えてみれば納得です。直哉の性質上、学校の連中が集うような場所で恋人と一息つこうなどとするはずもありません。

 直哉は、酷く穏やかな笑みを浮かべて恋人と何かを話していたかと思うと、見たことの無い革の財布のようなものを取り出しました。財布のようなもの、と言うか、端から見れば長財布にしか見えなかったのですが、私はその日直哉が例の友人と一緒に自動販売機で黒い二つ折りの別の財布を使っているのを見ているので、それを財布だと判断するのを躊躇いました。

 恋人がそれを手に取って軽くいくつかの場所を指さし何か熱心に話すのを、直哉は静かに微笑んで受け取っていました。漸くひとしきり話終えた彼女がやや誇らしげにそれを返して、直哉が少しはにかんで会釈した時、やっと私は、最近、直哉と恋人が付き合いだしてひと月経過した、というのを周囲の人間が騒いでいたのを思い出しました。様子から見るに、恋人から直哉への贈り物かもしれません。

 すると、直哉はその入れ物を開き、おもむろに何かを取り出しました。

 日焼け止めでした。恋人の前だというのに気にした様子もなく、掌に少し載せてうなじや首元に塗っていきました。いえ、彼女の前だからこそ、誰よりも気兼ねなく堂々としているのでしょう、だって、恐らくその入れ物は、確かに外からは財布にしか見えないけれど、だから直哉が秘密にしているものがきっと入っていて、そのためのもので、彼らの一か月記念日は数日前で直哉が日焼けを気にしなくなったのも数日前で日焼けどころか汗ひとつかかないのは、肌が綺麗なのはつまり、例えばボディシートとかハンドクリームとかが日焼け止めと一緒にきっと入っていて、恋人は直哉の体質と習慣を知っていて、それを贈って、直哉がああして清潔でいるのは、満ち足りているのは、そういうことで。恋人は日焼け止めをひょいと取り上げ自分に使い始め、直哉が少し慌てて身を乗り出すともっと取れないように背中に隠してしまいました「ケチ」少しざわめく喫茶店の中で、容赦なくからかう声と、それを叱る直哉の、しかしあまりに柔らかくて叱り切れていない声が、聞こえ、私は店を出て世界をくまなく照らしあげる太陽の下足早にその場を離れました。



 まだ誰も帰っていない家の階段を上がって、自分の部屋に入って鍵をかけると、自分が左腕を強く掴んでいることに気が付きました。掴んでいる右手の指が痺れ、白くなっています。手を放そうとしても筋肉が硬直してしまってなかなかうまくいかないのを、乱暴に抜き去って右手を振り回して痺れを千切って、私は、息を飲みました。

 左腕には綺麗に右手の形をした内出血が起こっていました。

 どっと体を襲った疲れそのまま布団の上に倒れ込んで、何より昏い眠りにつきます。殺そう。呟いた声が、そのまま夢にも震えることを、私は知っていました。



 狭苦しい部室の中央に置かれた小さなテーブルに直哉の恋人が横たわっています。首には私の手の形をした痣がありました。大したこともない貧相な日焼けした顎がわずかに口を開いてわなないています。唾液が汚らしくテーブルに垂れて、重たく長いスカートのプリーツはだらしなく脚と一緒に広がっていました。まだ意識があるようです。

「雪本君」

 彼女は、彼を呼び、涙を流しました。美しい声で、美しい涙でした。私のものとは全然違う、それはつまりなんでしょう、恋人と言うのは片思いをしている人間より清らかで尊いという事でしょうか、そんなバカにした話がまかり通っていいのでしょうか、自分ばかりが直哉を愛していると本気で思っているのでしょうか違う絶対に違います、違うから、私は彼女を内蔵ごと潰すように脚で踏みつけました。成熟しきっていない細いあばらが折れるのが心地よく脚に伝わります。骨密度に少々問題がある気がしました。どうせ大した身長ではないのだから牛乳くらい飲んでおけばいいのに。

 あばらが折れれば肺に刺さるとも聞くので、できればそうなってくれないかと思っていると、ポケットが急に重くなりました。私は普段ポケットには何も入れないのですが。まさぐるとああ、これはこの間使用法のテストがあったアルコールランプです。確か馬鹿な同学年の他クラスの男子が小火騒ぎを起こしたので一年生は全員一から小学校でとっくに通り過ぎたそれを学び直す羽目になったのでした。マッチマッチ、マッチは、ああそうだそうだ。横たわる直哉の恋人のヘアピンを取りますとほらやっぱり、マッチになります。前から配色がマッチに似ていて格好悪いと思っていたのです。何より直哉がそう言っていたのです。マッチみたいで面白い、と。彼女はよくそれを聞いて怒っていました。直哉は笑っていました。わかっていました。私にはそれを向けてくれないことも。ずっとずっとわかっていました。

 私が彼女について許せないこと。それは、長いスカートを折っていない分そのプリーツが美しく翻ること。前髪がそろっていてそのくせ軽く爽やかにたなびいて見せること。生き生きとしたポニーテールが跳ねまわって直哉の目が時折引きずられること。普通のマネージャー業務のふりをして直哉の方にばかりタイムを報告しに行くこと。それを直哉が困ったようにけれど拒み切れずに受け入れていること。心から笑っているくせにとても清々しくて愛らしいこと。その時見える歯が白いこと。セーラー服のスカーフの結び方がとてもきれいなこと。馬鹿で何も考えていないくせに直哉がその愚かしさを結局は愛していること。私から直哉の日焼けをその火傷を、痛みを秘密を奪ったこと。私はそれしか持っていなかったのに。

 どこに擦過するまでもなく、マッチは発火しました。アルコールランプはたっぷりと油を蓄えて私の憎悪を待っています。彼女の呼吸で火が揺らぐので、一度頬を思いきり張ってやりました。貧弱な肉づきです。日焼け気味の肌が無闇に私に似ていて余計に腹が立ちます。どうして直哉のように白い肌でいてくれないのでしょう。どうして私より圧倒的に美しくあってくれないのでしょう。そういうところが全部嫌いです。痺れの残るそのままその手で火を庇って、丁寧に丁寧に、アルコールランプにつけました。ああ、私の大事な片思い、私の大事な汚い初恋。こんな純粋な少女の爽やかな吐息などに消されていいはずがありません、ゆらゆら揺れて、そうです、こんな女が直哉の痛みを知っているはずがありません、どうせ殺すなら教えてやればいい、日光皮膚炎がどれだけ痛くて熱いか、どれだけ直哉が必死に私を求めてきたか。

 アルコールランプを彼女に投げつけて割りました。熱そうですね。とんでもない絶叫が彼女から溢れます。髪を振り乱して、セーラー服が燃え尽きて、一瞬相当な面積の肌が見えました。随分引き締まった体をしているようです。別段見たくもないのにやけに美しいそれがあっという間に炎に包まれて黒い影だけになるのでとてもいい気分です。ああいけません。このままだと私が死にます。

 「石崎」

 すれ違いざま、直哉が部室に入っていきました。珍しく半袖です。私のことなど目もくれません。いいのでしょうか。その愛しい石崎を殺したのは私なのですが。ええいいのでしょうどうでもいいのでしょう。でも私にとってはそうではありません。腹が立ちました。せっかく直哉がいないときに殺したのに。直哉も火に包まれてしまっては石崎の勝ちです。もうどうせ石崎は助かりませんが、直哉だけは助けてあげましょう。火の広がりつつある部室の扉の外から、直哉に手を差し伸べます。が、直哉は手を掴んでくれませんでした。無遠慮な力で私の肩を揺さぶります。

 「助けて」

 直哉の目はいつにもなく必死でまっすぐでした。石崎を指さしています。見開いて必死に訴えかけるその美しい双眸にはしかし、私はただの命綱です。石崎を助けてくれるかもしれない命綱です。

 けれどこの直哉が、この目が、声が、力が、きっと今までで一番リアルでした。

 そもそも、直哉は私に、実際に「助けて」と言ってきたことなんか一度もなかったのです。火傷をした時だって、私が勝手に見ていただけ、それで勝手に助けただけ、それで勝手に秘密を知っただけ。でも石崎は、彼女は違いました。直哉が望んで彼女に打ち明けたのです。彼はきっと私のことなど忘れています。彼女だけに火傷を打ち明けた、それが直哉にとっての真実です。その時は本当に、私が夢に見るように、助けて、と言ったのかもしれません。しかも彼女は、それを解決してしまったのです。なんて綺麗なんでしょう、直哉の痛みに寄生する私とはすばらしい違いです。

「助けて」

 直哉がまた肩を揺さぶりました。石崎がもう死んでいるのは明らかなのにそれでも助けてとは何をどうするんでしょうか?優しくキスでもするんでしょうか?そうすれば目覚めるとでも思っているんでしょうか?そんなわけがない、そんなことは絶対に許さない、どうしてそんなバカなことを言うのでしょう?

 とうとう直哉は私にひざまずきました。脚はもう既に、火に捕らえられていますが、きっと気付いてすらいないのでしょう。ただ石崎のことだけ思って激しく泣きじゃくって叫びます。繰り返し、同じ言葉を。

「助けて」

 彼が私の手に縋り付き、そこに彼の涙が落ちます。まるでいつかの夢のようです。拝むように頭を下げて、助けてという割に、直哉はもう私の顔すら見てくれません。

 石崎を好きな直哉が、どうしても私に伝わりません。

 「直哉」

 そう呼ぶと、直哉がやっと顔を上げ、私を見ました。気味の悪いものを見たとばかり、その唇が震えます。

 なんでそんな顔をするのかわかりません。わかっているけど、わかりません。直哉の感じることすべて、私の中に伝わってくれません。私の感じることすべて、直哉の中に入ってくれません。

 けれど初めから、それはそうだったのでしょう。

 これが真実でした。

 初めからこうだったのでした。私たちは。

「直哉、好きだよ」

 何度も繰り返したその言葉を、敢えて言います。

「直哉、好き」「好き」「好き」「直哉」

 聞き逃してほしくなくて、いくつもいくつも重ねると、涙も一緒に零れ出ました。何様のつもりなのでしょう。無神経にも、今一番泣きたいだろう直哉の上にかかります。

「愛してるよ、直哉、愛してる」

 直哉の脚から火が這いあがってきました。そろそろ飲み込まれてしまうはずです。けれど直哉は私に抱き着いてくれません。

「直哉」

 ただでさえ泣き腫れた声を熱で煤けさせて叫ぶ私に、直哉は澄んだ声で言いました。

「俺は、お前なんかどうでもいい」

 直哉の首を絞めました。

 わかっていました、そんなことは初めから、初めからわかって、わかりきっていて、誰に言われるまでもなく自分が一番よくわかっていて、それでもどうにもならなくて、どうしても直哉が好きで初恋で、けれど直哉にそんなことは関係なくて。

 それくらいわかってる、ずっとずっと見つめてきたんだから。だったら直哉に恋したことが罪なのか。ふざけるな。こっちだって好きで片想いなんかしてるわけじゃない。初恋相手を選べるものなら選びたかった。もしそうなら絶対に直哉なんか選ばなかった。直哉なんか好きになりたくなかった。あんな風に恋人を見るのを見つめてなんていたくなかった。幸せそうな直哉を見ていて不幸になんかなりたくなかった。直哉に死んでほしくなんかなかった。殺したくなんかなかった。彼が健やかであることをずっと願っていたかった。直哉を好きになんてなりたくなかった。

 「好きだよ。直哉」

 直哉は私の手を振りほどき、自ら火の中に駆け込んでいきました。石崎と一緒でさぞ幸せでしょう。



 ゆっくりと体を起こすと、部屋は随分暗くなっていました。時刻は午後四時ごろです。二時間のうちに見た夢にすっかり現実の体も毒されたようで、涙が幾筋か通った感覚がありました。

 直哉を想うのを、やめにしようと思います。

 できるかどうかはわかりませんが、少なくとも、やめる努力を死に物狂いでもしなければなりません。なんと言っても恋愛体質です。恋愛体質、響きばかり甘ったるくっても仕方がありません。 

 恋愛体質の人間が叶わない恋をして、それでも諦めずにいたところ、行きつく先はどうなるでしょうか?諦めないからどんどん進み、どうしようもないほど激しくなって、自殺だったらまだマシでしょう。意中の相手に対するストーカーもレイプも軟禁も監禁も殺害も心中も、つまりは恋愛体質の賜物であるはずです。先程の夢は、私の病状が、そうした直哉を想っての蛮行に踏み切りかねない段階にまで進行していることの証に違いありませんし、さらには左腕の痣となって、現にまでその影を落としつつあるのです。

 ましてや私は一度やり始めたら最後までやりきってしまう幼稚な人間です。弾みがついてしまえばもう取り返しはつきません。

 安全装置はもとから無く、実弾は常にこもっていて、狙いはいよいよ定まりかけていました。だから拳銃を持つことさえやめるべきなのです。直哉を想うことを、今こそ本気でやめにかかるべきなのです。どれほど苦しく苛まれようと、心が傷ついていようと、甘いからと言って自ら口に毒を運び続けたのは私の罪であり、結果としてそれが狂おしいほどの衝動になって私の体の制御を奪いつつあるのですから、私はもはや被害者ではないのです。

 恋わずらいをともかく直すべきでした。成就させるつもりのない人間に、拗らせる権利はありません。

 授業中に直哉を見てしまうこと、直哉を勝手に助けること、すべてを一切合切やめる必要があります。毎日毎時毎分毎秒直哉を想い浮かべることも、直哉、と呼んでしまうことも。

「直哉」

 髪に突き立てた指の隙間から声が漏れました。膝に埋めても闇の中でもう一度混みあがりそうになるそれを掻きむしって噛み千切ります。まだ許しを請う気なのか、まだ助けてもらえるつもりでいるのか。病人気分も大概にしろ。誰のためにもならないくせに、ただ一方的に欲しいからよこせと言っているだけのくせに、『わずらい』などと、病に伏すすべての人間に失礼です。

 ―自室の灯りをつけ、窓を開けて深呼吸しました。

 今はどんなに自分を責めることを考えても、却って被害者意識を育ててしまいそうです。落ち着くのが先でしょう。

 居間に降りると、当然にまだ誰も帰ってきていませんでした。適当に目についたスポーツドリンクを手に取って、喉に流し込みます。

 やけに甘いです。好きではない種類を飲んだようでした。

「俺は好きだけどな」

「……」

 ハッキリと、直哉の声がしました。当然家の中にいるはずがありません。私は半ば諦念交じりに目を閉じます。

 詰襟の直哉が、暗いどこかにいました。やけに襟が開いています。思わず舌打ちをしました。これは私が腹で飼っている怪物です。私の欲求を喰らって直哉の毒を毒のまま飲み込んで成長する、引き金を引きうる怪物です。私が舌打ちをしたのを嬉しそうに眺め、べー、と舌を出しました。

 私が一口、また甘ったるい電解質の水を注ぎこむと、どこからか注がれているのか、直哉は膝をついて舌を差し出し、行儀悪くそのまま横着に受け止め始めました。口の端から零れる水をそのままにして、気持ち良さそうに喉を鳴らす様は野性動物のようです。飲み干せば、感嘆めいた息を一つ漏らします。

 吐き気がするほどわざとらしいそのしぐさに、いよいよ嫌悪が湧きます。直哉にではなく、私にです。

「言ったじゃん、こないだ」

 確かに言ってはいました。それこそ例の友人と議論をしていたような気がします。好きなスポーツドリンクについて。

「ねえ、冷たいの飲んで、落ち着いたよね」

 詰襟はニタニタと笑って、寝っ転がって頬杖をつきました。今さら気付いたわけでもないだろうに、口の端に零れた水を中指でゆっくりと拭き取り、舌で舐めとって唇で指を拭いました。

「ねえ、しよう。俺はお前のこと好きだよ。」

「しない」

 心で強くそう叫ぶと

「助けて」

 と、また、いつもの言葉を繰り返します。酷い願望です。こんなものは直哉ではありません。これに縋って、これを完成させることだけに終始して、私はそれを初恋と呼んでいたのです。彼に伝えないこと、ただそれ自体が悪いことかどうかはわかりませんが、それを言い訳にして、知らず知らず自分の中だけで引きこもっていたのでした。現実の彼は、何も私に与えてはくれないから。けれど、私が彼を想うのをやめられない以上、そうでもしなければ、現実の彼に具体的な迷惑をかけていたかもしれません。自分の中で暴れまわる欲求を制御してもう一人の直哉を作ったからこそ、私はまだまともでいられたのかもしれません。現実を見なくて済むからです。夢に、幻に、居場所を見つけることができたからです。

 それももう終わりです。終わりにするのです。現実の直哉にも夢の直哉にも、もう用はありません。やがて死んでゆくだろう私の中の彼を見限って、目をそっと開きます。



 以降、夢は今までとは全然違う様相を呈しました。

 詰襟は相変わらず出てきます。けれど、なんにもしません。つまらなそうにじっとしています。けれど時折思い出したように、ただ言ってみただけのように、助けて、と呟きます。

「何が?」

 たまに問いかけると、うーんと首をひねります。とりあえずなにも言わないまま、また退屈そうにするのです。

 その静けさが、私には、恐ろしくてたまりません。私の気持ちが揺るげば、欲をかけば、また必死に詰襟が助けてと言ってくるのはわかりきっています。助けて、と言いつつ、何をどうしたいのかの自覚に乏しい直哉の態度は、私が単に、それをうやむやにしているからでした。敢えて感情も考えもまとめないまま無理に頭から追いやろうとするので、直哉も居心地が悪そうですが、勝手ながら私自身にいてほしい気持ちがある以上、彼は出ていくこともまたできません。迷惑そうな空気をわざと出して、客が帰るのを待つばかりの空気は、酷く虚しくて冷たくて、苦しいと思った瞬間、詰襟の直哉が、助けてと、また呟くのです。

 それを必死で無視します。現実の直哉に何もしない以上、夢の直哉を助けるわけにいきません。

 


 現実の直哉の話に移りますと、その順調そうな有様は一変しました。

 私は不思議とも思わずそれを眺めました。直哉も不思議だとは思っていなかったでしょう。あの時折見せる鋭い強かさは、どんなに恋に溺れる私にもはっきりと伝わっていました。

 それは、綱渡りをする人の鋭さでした。正体すら見せない、しかし確実に存在する不安を、生身の直哉はひしひしと感じていたはずでした。その結果があの能面のような笑顔で、そして今まさに、足元をすくわれたのです。

 直哉が褒め称えられていたすべての理由は、直哉を追い詰めるものに変わりました。すなわち、その美しささえ。

 けれど私はどうにもできません。窮地に陥る直哉に何をするわけにもいきません。

 直哉に手を伸ばすことは、たとえ助けの手だとしても、絶対に有ってはいけないのです。手を取った直哉を引き寄せて、その身も心も丸ごと暴食してしまいたくなる自分を知っているからです。

 だから直哉が文化祭で目立つ役を押し付けられても、それが原因でストレスをため込んでも、それが原因で誤解を招いても、それが原因であれだけ愛していた恋人に青春のすべてをめちゃくちゃにされても、好奇と批判のまなざしに絶えずさらされることになっても、私は直哉のために、何をすることもありませんでした。

 私にできることは、いくらでもありました。できるのに、できないからしませんでした。私が勝手に横恋慕を抱いたために、恋してなくても助けたくなるような不運の中にいる直哉を、私は見殺しました。

 私は私が手を汚したくないから、直哉が死んでいくのを見守ったのと同じことでした。それでもマシだったのです。直哉が不幸になってすべてを失って、まともな生活が何一つ送れなくなろうと、私が直哉をズタズタにしてしまうよりはずっとマシでした。他の人間ならいざ知らず、私の手にかかったら直哉は二度と立ち直りません。それが私の性分です。私は私単体で、誰よりも直哉の害悪でした。

 それでも、あれだけ毎日恋人と下校していた直哉が、その道に一人きりでいるのを見かけた時、震えがくるほどの全能感が私を支配したのだから、もう、何も救えません。好きに声をかけられる、彼の特別を今なら独占できる、その状況への全能感です。この期に及んでまだそんなことを考える自分が、心底、おぞましい。



 直哉が一人で帰るのを遠巻きに眺めた何度目かの夜の夢で、直哉が私を殺しに来ました。詰襟の直哉なのがおかしくて、思わず笑ってしまいます。そうです。私はきちんとわかっています。とっくに夏服の半袖になった直哉が、現実の直哉が、たとえ何があろうと、私を殺してくれるはずはありません。夢にも思わないとはまさにこのことです。

 他に火種になりそうな苦痛もありませんので、私はただ直哉に火をつけられて燃やされました。石崎の敵とでも言うんでしょうか。あるいは自分を助けてくれなかった私への断罪でしょうか。どちらでも結構です。私を直哉が殺してくれるならそれでいい。いっそ殺してほしかった。いっそ憎んでほしかった。それでも私は、愛憎どころか関心すら私に抱いていない、そんな直哉が好きです。ひたすらに疲弊し一人で帰る、半袖の直哉が、今もまだ大好きです。

 「直哉」

 詰襟の直哉を呼びます。詰襟は恐れおののいて部室の外からこちらに来ようとしません。往生際が悪いです。石崎を殺そうとする私の夢に突然割り込んできた、半袖の直哉は、迷うことなく石崎と一緒に燃え尽きました。やっぱり詰襟は駄目です。半袖の、本物の直哉の方が、よほど美しい。詰襟が半袖を殺すことなどあってはならない。不出来な害虫を肥らせてしまった責任は殺してとります。

 足が火傷していてどうしようもないので、見苦しく這いずって部室の入り口に進みます。熱い、苦しい、それでも詰襟もろとも死なねばなりません。それが私の償いであり

部室のスピーカーから聞きなれた音楽が流れました。聞きなれたチャイム、違うチャイムじゃないこれは、着信、着信音、なんで、どうして、これは



 飛び起きて枕元に置いた携帯電話を取る。深夜二時、なんで、着信、メッセージじゃない電話、がかかってきて、雪本直哉、なんで今、どうして

 「もしもし」

『ああ―ごめん遅くに。寝てたか、やっぱり』

「いや―」

 なんで、なんで直哉が。用件は。どうしてこの時間に。

 直哉はいきなり深夜に電話をかけてくるような人間じゃない。常識云々以前に人からあれこれ言われるような面倒なことは絶対にしない人間だから、いらない負けはしない人間だから、そういう保身はできる人間だから、知ってる、別に無鉄砲でも純真無垢でも何でもないことは。

 じゃあなんで、なんで今、まさか気付かれて

『ああ、ごめん。ちょっと、突発的に、どうしても話しておきたいことがあって。明日は土曜だし、いいかなとか思った。ごめん』

 直哉の声が震える。緊張から。まるで勝ち戦でもするような武者震いするような声。いいかなってなんだ、自分に恋をしている相手だからそのくらいの無茶はいいかなとか?話すときには深い話も多かったから、多少の信用は確かに勝ち得たのだろうか。だったら何をそんなに謝る?

『助けて、欲しいことがあって』

 助けて。

そう言った。直哉がそう言った。直哉から、多分自分だけになんで自分に?聞き間違いじゃない、確かに、そう言った。

 直哉が、助けて欲しいと、言った。

 咄嗟に手の甲に噛みついて携帯電話を遠ざける。込みあがってひきつる呼吸が熱い。直哉が自分に電話をかけた、助けを求めて、直哉だ、直哉の声だ―。

「いいけど」

 努めて冷静に返すのに、一瞬の間を要したものの、幸い直哉は気にした素振りもなく、迷いのない声で切り出した。

 


 私の初恋は実に汚い。欺瞞と自己満足の中で純度を保って、いざ出てみれば腐りはて、勝手に自分で焼け爛れて、挙句は腹の中で怪物を肥やし、今もこうして嘘か真かわからないけれども確かに挟んだごくわずかな疑念にすら墨塗りをして、直哉から差し出されたその手を一も二もなくとるのです。

 あれほど焦がれていたのに、あれほど直哉を渇望していたのに、たった一度助けを求められただけで、私はもう、自分では受け止めきれないほど幸福になってしまったのです。それは、今までの何もかもを壊してしまうような、これさえあれば何もいらないと思ってしまうような、怖いくらいの幸福でした。

 私は、直哉を助けることにしてしまいました。怪物の息の根は未だ止められないまま、腹の奥底でしまい続けたまま、ついにその手を取ってしまったのです。これからしばらくは直哉に必要とされている幸福感で満たされてもいられるでしょうが、またいつ律せなくなるとも限りません。むしろ、今ここで直哉に甘えてしまった人間が、今後どんな場面で自分を抑えることができるというのでしょう。

 だから私は、耐える以外の最終手段を設けることにしました。

 直哉を完膚なきまでに壊しそうになったその時に、自分を先に壊します。

 あくまで最終手段であって、これもまた直哉に何らかの形で迷惑がかかるのは間違いありませんから、そうならないよう、できる努力はすべてします。かかる負担はそもそも軽くして、ある程度のことには耐えられるよう鍛えて、疲弊した時には休息をして、そのうえでなお、駄目だった場合には強制終了を致します。

 危険を承知で手を取ってしまったのは私です。どんな対価を支払ってでも、直哉の安全は確保して見せます。

 そうしてまでも、私はこの初恋を終わらせられませんでした。直哉を断ち切れませんでした。直哉を想うことは確かに苦しく、時に直哉のすべてを壊したいとさえ思えるほどに狂おしいものですが、私をそうした絶望に追いやるのも直哉なら、あの無遠慮な深夜の電話がそうであるように、私に無上の幸福を与えてくれるのもまた、直哉に他ならないのです。

 宿って三か月と経たない思春期の初恋ごときに大げさすぎると、呆れる方もおられるでしょうが、それでも私は撤回しません。

 初恋は二番目以降の恋に必ずしも勝りませんが、そうそう劣りも致しません。何かの間違いや若気の至りではありません。私にとっては、初恋も最後の恋も同じです。嫌と言うほど、直哉だけです。

 雪本直哉が私の初恋で、これからも私の最愛の人間であることに心からの喜びを噛みしめつつ、筆を置かせていただきます。

文芸風前会

~やりたいことだけ、書けばいい~

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