人生とフラグと本当の敵について
私はここ数年何かと絶望しがちなのだが、最近また明確に絶望することがあったので覚書としてここに書き記そうと思う。現代には私たちを絶望から救ってくれる文明が山程あり、それを目にするためのツールも、機会もそこら中に溢れている。今回私に絶望を与えたその文明は、幼い頃は絶望から救ってくれる文明の一つだと思っていたのだ。
それは漫画である。
漫画が好きな人間であれば、思い当たる節がある人が殆どだと思う。ページを捲る度に嫌な予感が脳裏を過り、不思議と主人公達の幸せが想像できない状況に陥った事があるだろうか。そして物語が己の予期した以上に酷い状態に陥った時、体が震える、動悸がする、涙が止まらなくなる、無気力になるといった症状が現れる。しかしどんなに手が震えようがページを捲る手は決して止まらない。何故なら面白いからである。
私は昔から漫画の所謂フラグを立てるのが得意だった。例えば読んでいた漫画の主人公が急に変わってしまった時、私はしばらく『嘘だ、信じられない!コイツじゃない!』と新しい主人公をコイツ呼ばわりまでして喚き散らしていた。しかし読み進める内、一読者としてその主人公を受け入れるべきだと悟り、知ろうとした。それから少しした夕飯の席で、弟に向かって『私は心を入れ替えた。今はむしろこの子の方が前の子より好きになってるよ。』と話したが、その直後に読んだ話で主人公が急に戻った。展開を知っていた弟は項垂れる自分を見てニコニコしていた。
またある日の夕飯の席では、共に読んでいる漫画の話をしていた時、『この人達の関係性がすごく好きだ。辛いのは疲れるし、このくらいの幸せが丁度いい』と持論を披露したが、その直後に読んだ話で一瞬にして関係性と幸せが飛んでいった。先に読んでいた弟は完全無気力になった自分を見てニコニコしていた。
私はこれ以上、弟を低級なフラグ回収でニコニコさせたくは無かった。そして、どうすれば漫画の話をしつつフラグを立てるのを防げるのか考えた。感情を入れずに読むと言うのは簡単だが、感情を入れなければそもそも漫画を読み進めようという気になれない。常に展開が裏切られるものとして読むとしても、結局心のどこかで淡い期待を抱いてしまっている自分は誤魔化せないだろう。
そもそも、何故人は漫画に得られる絶望感に抗えない魅力を感じてしまうのだろうか。
漫画で絶望を感じるシーンがやってきた時、己の心はそれはそれは煩い。『オイオイオイ、まさかな。オイ、やめろって。それは……ちょ、そりゃ無いよ。オイダメだって!頑張れ!やめろ!!クソッ、ふざけんな!!最悪だ!!アア〜!!……うっ……う……』といった様子だ。もはや競馬である。
それならば競馬を楽しむ人たちにとって競馬の魅力は何だろうか。馬が好きだという人は別として、やはり自分の金銭がかかっているスリルは理由の一つとして大きいだろう。
それならば漫画から得られるスリルとは何か。それは人生である。
私たちが一度きりしか体験できないスリル、それが人生のスリルである。もちろんその一度には大きな意味があるし、そのスリルは死ぬまで続くだろう。しかし漫画に感情を投影する事で、この大きなスリルを追加で擬似体験し味わう事ができる。
私は、このスリルの一番の味となるのが絶望だと考えた。
そうすれば人が漫画で得られる絶望感に魅了される理由も納得できる。スリルを最大限楽しむのに必要であるからだ。予測を裏切られて絶望する事こそが人生であり、登場人物達のその体験に没頭する事で人生のスリルをより一層味わう事ができる。
何故絶望が味になるのかというのは至極簡単な話で、その先の希望を期待するからである。谷と山、そして谷、…と続くこの物語展開が重要であるのは、当然漫画に限った事ではない。
私はフラグを立てる事で、無意識にこのスリルを最大限に楽しんでいるのだろうと思う。そして弟もまた、私がフラグを立てた後に体験する絶望に感情を投影しニコニコしている。フラグを立てる事は、漫画を楽しむのみならず、漫画を読む私を通す事で周囲の人間を二度楽しませているのである。
だからこそ、フラグを立てるのはやめるべき事では無いのではないかと、私は考えが変わった。ニコニコされた時に覚える惨めな感情を只噛み殺せば良いだけである。それさえもいずれ良い味になるのだと、こうして体験談を書いているだけで実感する事ができる。
無駄に長く持論を述べてしまったが、要するに、人生における本当の敵は退屈なのである。
余談だが前回のブログも漫画と絶望の話だった。今回はネタバレ回避の為具体名は出さないが、当てはまりそうなものはいくつもあると思うので、それぞれが想像した漫画だと思ってくれれば良い。それが貴方の絶望漫画である。
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