絶望と昆布茶とギャグマンガ日和について


長らく文章というものから離れていたので、リハビリがてらに現状と体験談を書いてみる。

自分は現在資格試験に向けた勉強中であり、春頃から執筆活動を止め、風前会も休ませてもらっている。試験は2月にあり、合間に大学の卒業試験なども挟まってくるため、既に命を削って足掻き出す時期に突入している。


春、私は気合に満ち溢れていた。積み重ねてきた年月が試される年がやってきたと身を震わせ、スタートダッシュを決めるためクラウチングスタートの体制を整える。意気揚々と後ろ足を蹴ったその瞬間、待ち受けていたのは新型コロナの影響によるオンライン授業だった。

一度は戸惑ったが、人間というのは順応性が高い生物である。数週間経てば次第に自宅での勉強生活に慣れ、大学への通学時間を勉強時間に費やせるので、むしろ良いのではないかという思いすらあった。そして来る7月、かなりの自信を身に着けた上で、本格的に試験勉強を始めてから一回目の模試を受けた。

その結果が地獄の始まりであった。

「自分なりに勉強をしていたつもりだった」というのは陳腐な言い訳だが、圧倒的に回りとの勉強量の差があったことにその時初めて気付いた。また、酷い結果になってしまったことを話す友人がすぐ隣にいない事にも気が付いた。わざわざ連絡をするのは、勉強の邪魔をするようで気が引けた。そこで私は一つの事実に辿り着いたのである。今回のコロナ騒動によるオンライン授業を踏まえた勉強生活では、自分で自分の精神的ケアを行うことが最重要事項である、と。


そこで私はパソコンを開き、「試験 絶望」で検索をかけた。


出てきた画像や体験談をかたっぱしから眺めている中で、一つの単語に強く目を引かれた。それは、真っ黒の背景の中に「絶望に意味はない 今できることをやろう」と白文字で書かれた画像であった。

確かに、その通りである。絶望したところで頭が良くなる訳もない、すぐに頭を切り替えて改善策を挙げ、勉強を続けなければ。そう思い立ったはいいものの、思い通りにいけばこうして体験談を書くことにはなるまい。結局、その後私はショックを数週間引きずり、勉強をしていても不安が募るばかりで集中力に欠け、大学の試験前になってようやくペースを持ち直す羽目になったのである。


時は過ぎ、夏期講習を乗り越え、後期のオンライン授業が始まった。また模試が控えている。前回のような自信は当然のごとく失っており、私は模試に対して強い恐怖心を抱いていた。そんな日々の中、休憩中に眠気を晴らそうとツイッターを開く。すると一つの画像が目に留まった。


「すまん 君を危険な目に合わせるわけにはいかないんだ」トン… 

「一人でなんてムチャよ!それに何で今首のとこトンってしたの!?」


それはギャグマンガ日和だった。


私は「ギャグマンガ日和 公式」というアカウントをフォローしていた。


ギャグマンガ日和公式アカウントは、およそ一週間の頻度で短編漫画の冒頭2~4ページをツイートしている。丁寧に何巻の何幕かまで書いてあるので、続きを読みたければその巻を買おうという手法だ。


あろうことか、私はこの『首トンしても気絶しないヒロイン』に爆笑してしまったのだ。


そして思った。前までの自分ならば、この画像でここまで笑えただろうか。いや、クスリとまではいっても、爆笑はしなかったであろう。

あの日の体験が無ければ、こんなに漫画を楽しく読めていただろうか。

あの絶望は本当に意味が無かったのだろうか。



――昔、友人と鎌倉まで白玉を食べに行ったことがある。

馬鹿舌なのもあり、まるで食に興味がなかった私は、遊べればどこでも良かった。友人が白玉を食べたいというので、意味が分からなかったが特に文句も言わずについていった。するとなんと、その白玉屋さんには大行列ができていたのである。

その日は真夏日で、少し歩くだけでも全身から汗が噴き出してくる。私は躊躇った。この猛暑に白玉の為だけに並ぶのは厳しい。しかし友人はそもそもこの目的の為だけに私を誘った訳であるし、期待に満ち溢れた顔で並ぼうとしているのに、何の事前情報も仕入れず二つ返事でOKしてしまった私が、ここにきて嫌だというのはあまりに非人道的である。行列のできる白玉というのも少しは興味が出てきたし、友人と話していればきっとあっという間であろうと、グッと堪えて並ぶことにした。

数時間後、ようやく自分たちの番が来た。ここまで待てば期待値は最高潮である。出てきた白玉は店内の穏やかな光を緩く反射して光り、さぞかし美味しそうに見えた。友人と笑顔で目を合わせて、一口。


ああ…、かき氷が食べたい…。


馬鹿舌には白玉はただの白玉であった。友人の満足そうな顔を見て満足する事にした私は、のどの渇く口内に白玉を詰め込み、あとは友人を見ていた。友人は美味しそうに白玉を食べている。私もあんな風に白玉を食べられたら――。ごめん、私は白玉の美味しさが分からない人間だった――。内心で友人に対する申し訳なさを感じつつ、打ち明けられないままに白玉が無くなる。帰りに土産屋等を回り、そこで私も十分に楽しもうと、そう思った瞬間だった。

「食後の昆布茶でございます」

そう言って店員が差し出したのは小さな湯飲みだった。こんなサービスがあるのかと、驚くのと同時に興味をそそられる。何を隠そう、生まれてこの方、私は昆布茶を一度も飲んだことが無かったのである。名前からして昆布系の味があるのだろうが、梅が少々苦手な私は梅が含まれていることを危惧して躊躇した。しかしものは試しだ。一口飲んでみようと口に含むと――


そこは天国だった。




あれから昆布茶を飲む機会が何度かあったが、あの日の昆布茶を超えたことは無かった。そして首トン無効ヒロインを見たその日、私は急にあの昆布茶を思い出したのである。あの昆布茶は、疲労、罪悪感、期待と絶望、意外性、全ての演出が折り重なった上での素晴らしい味だったのだと、その時唐突に理解した。その日の全てはあの昆布茶の為だけにあったのだと、そう思える程には強烈な体験だったのだ。


そして私は悟った。「人生に無駄はない」という陳腐な言葉があるが、その本意は、「人生に無駄はないと思えるような体験に自らが気付けるかどうか」なのだと。ギャグマンガ日和は、あの日の昆布茶を思い出させてくれた。そして、あの模試の絶望は、私がこのたった数コマで爆笑するためにあったのだと、そう気付かせてくれた。


これからもきっとそうだ。成績が悪かろうが、良かろうが、結果がどっちであろうが、10年後も資格勉強をしている訳がない。資格勉強はいつか終わるし、終わった瞬間、我慢しているゲームを夜通しやって、白玉を食べに行った帰りに昆布茶の話ばかりしていた私を温かい目で見守ってくれた友人と夜通し遊んで、きっと全ての苦痛がどうでもよくなる程の幸せを得られるのだろう。そして社会人になれば、それはそれでまた苦しむ事がたくさんあって、そしてその度に私はきっと思い出す。昆布茶と、ギャグマンガ日和を。



これだけ誇張して書いてしまったが、これは仕事終わりのビールが美味しいと全く同義である。

また、昆布茶とギャグマンガ日和を思い出したからといって成績が良くなる訳では無いので、これはあくまで精神面に視点を置いたもので、勉学とは全く関係の無い話である。

ちなみに、首トン無効ヒロインはギャグマンガ日和13巻252幕「ライトニングクロー」で読める。

文芸風前会

~やりたいことだけ、書けばいい~

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